※原爆の話が出てきます、お辛い方はこのまま閉じてください
8月が来るといつも思い出す
必ずと言っていいほど平和学習がしっかりと組み込まれていた登校日
私の地元は九州で、特に平和学習には力を入れていたと思う
それが夏休みの登校日だけでなく結構な頻度である
戦争のアニメを見たり当時の被爆者の方の話をきたり
修学旅行も必ず平和学習だった
それが当たり前で普通だった
当たり前で普通すぎるせいか、感受性の高い小学生の私は学校に行けなくなったこともあった
小学生ながらに自分を責めた
事実と向き合うことを恐れるなんて情けない、と感じていたんだと思う
よくないことをしているとも思っていた
それほど身近で、それほど私の中に入り込んできた平和学習
クラスの子は平和学習でいった資料館がショックで学校に来られなくなった
姉は飛行機の音を聞くだけで怖くて布団から出られなくなった
いろんな方の体験を話してもらったけど、身内の話を直接聞いたことがない
唯一、母から祖母の話は聞いた
当時祖母は大阪の日赤の看護学校に通っていたが
戦争が始まってすぐに地元に帰され卒業もできなかったらしい
戦争中は学生の身でありながら看護師として駆り出され
佐世保の港で海軍さんと共に過ごしていたと聞いた
祖母は綺麗な顔立ちをしていて海軍の水兵さんからは慕われていたようで自分の看護服のアイロンがけまでしてもらっていたとか
もちろん当時の婦長さんにだいぶ目をかけられていたけど、祖母はあっけらかんとした人だったので「勝手にあっち(水兵さん)がやっているだけです」と返したらしい
とても祖母らしい笑
そんな最中に長崎で原子爆弾が投下され、佐世保からも大きな雲が見えた
すぐに救護に行くため皆で市街地に向かって手当に当たったそう
祖母の同僚はまだ1人で立てないような小さな赤ん坊を背負って手当をしていた
その赤ん坊もまた被曝していた
何日か経つとその赤ん坊がぶらんと力なく背負われているのがわかったそう
結局助からなかった
それがとても辛かった、と母に話してくれたそうだ
子供を持つ親として、産んだ母としてそれがどれほど辛いことか
そして母親がその場にいなかったということは、、
どれほど無念だっただろうと思う
少しでも考えるだけで苦しいて泣けてくる
これは一つの話でしかなくて、沢山の悲しい話が、一人一人、そこにある
小学生の時に聞いた話も覚えている
修学旅行では長崎で被曝遺構も回った
被爆者の方の話を聞くたびに「あそこか」と思い出す
広島にも個人的に訪れたけど資料館にはついに入れなかった
とても、受け止めてしまう気がしてどうしても怖かった
そこでも自分を責めた
でも、一人一人の話が私の中にしっかり残っている
それは紛れもなく、人為的なものによる悲しい事実
その事実を伝えていかないと、と母になった今強く思う
今まで守ってきた平和をどうか続けて行けるように
子供達がずっと笑っていられる未来となるように
8月は平和を願わずにいられない
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